江戸時代には尾張徳川家2代藩主光友の隠居所や成瀬、石河、渡邊など尾張藩三家老の下 屋敷があった。明治以降は尾張徳川邸となり、昭和6(1931)年に名古屋市に寄付され、平成16(2004)年に池泉回遊式の日本庭園として再整備。黒門・脇長屋・塀は明治33(1900)年完成の旧徳川邸遺構。平成23(2011)年に、名古屋市の認定地域建造物資産に認定された。
尾張徳川家の旧蔵書を中心に和漢の優れた古典籍を所蔵する公開文庫。エントランスホールは旧徳川邸遺構で国の登録有形文化財。
昭和10(1935)年に開館。徳川家康の遺品を中心に、尾張徳川家初代藩主義直(家 康9男)以下歴代の藩主や夫人たちの遺愛品、いわゆる「大名道具」1万件余りを収める美術館。国宝「源氏物語絵巻」をはじ め、国宝9件、重要文化財59件など、種類の豊富さ、質の高さ、保存状態の良さを誇る。
戦災で焼失後、昭和28(1953)年に再建。日本の洋風建築を数多く手がけたウィリア ム・ヴォーリズのデザインで、献堂当時の姿を維持する貴重なプロテスタント教会。「ルーテル」は宗教改革者マルチン・ルター のドイツ語発音に沿ってつけられている。
毛染めの歴史と文化を伝える「髪と毛染めの博物館」。展示やシミュレーターなどの体 感コーナーを通じて、多様な価値観や美が表現できる毛染めの魅力を感じる事ができる。
文久2(1862)年、尾張徳川家14代藩主慶勝が京都府八幡市圓福寺の蘇山玄喬禅師を請じて雲水修行の専門道場として創建。外門と中門の間には仏殿があり、中には涅槃像が安置されている。
尾張徳川家代々の菩提寺、浄土宗。尾張徳川家2代藩主光友が初代藩主義直の菩提を弔い、慶安4(1651)年に創建。本堂と御霊屋(尾張徳川家のご霊廟)は、令和7(2025)年に国の重要文化財に指定されました。総門、三門(山門)、御成門、鐘楼、経蔵、開山堂、源正公廟が市文化財、徳興殿が国登録文化財に指定されている。なお、総門および三門は創建当時の建築物で、本堂は名古屋市内最大の木造建築物である。
ロココからエコール・ド・パリまでの絵画やアール・ヌーヴォーのガラス、家具など、18世紀から20世紀のフランス美術300年の流れが一望できるコレクションが魅力。音声ガイドの無料貸出も有る。
名古屋はかつて、海外に輸出される陶磁器生産の一大拠点だった。
横山美術館では、明治・大正時代に制作された輸出陶磁器の「里帰り品」を中心に展示。日本初の洋風陶磁器であるオールドノリタケをはじめ、国内各地で制作された陶磁器を堪能できる。
昭和7(1932)年、名古屋陶磁器貿易商工同業組合事務所として建設。タイル壁や半円窓、軒下の装飾などが特徴的なドイツ表現主義を彷彿とさせる建築で、陶磁器のまちのシンボル的な建物。鷹栖一英による設計。1階展示室では戦前~戦後の輸出陶磁器を展示。
祭神は天照大神。創建は不詳。寛永5(1628)年に再建し、翌年に尾張徳川八神社の一社となった。境内には七末社(須佐之男神社、山神社、天神社、八幡社、秋葉社、金刀比羅神社、湊川神社)があり、そのうち楠木正成を祀る湊川神社は儒学者・国枝松宇の賛助により慶応3(1867)年に創建された。(神戸にある湊川神社より5年早い)
名古屋城下より信州に向かう旧善光寺街道沿い。江戸万治年間に美濃より今の名古屋城下に移住し、享保年間には油商を営み名古屋城に納めるなどの商売をしており、現在は食料品店。店奥の油屋の資料室にて江戸時代の資料を展示している。令和7年(2025年)に、名古屋市の認定地域建造物資産に認定された。
慶長13(1608)年、清洲城主であった松平忠吉の養母於美津(おみつ)の方が清洲に創建。慶長16(1611)年、清洲より現在地に移るが天明2(1782)年に焼失。明治5(1872)年、建中寺の御霊廟(おたまや)を譲り受け、本堂とした。御霊廟は、5代藩主五郎太のものを2代藩主光友の正室千代姫(3代将軍徳川家光の娘)のものに模様替えしたもの。
真宗大谷派の末寺。慶長2(1597)年の創建。尾張徳川家7代藩主宗春の生母宣揚院が養念寺門徒の三浦家の娘であったことから、多くの寄進や保護を受けた。烏が池は創建当初からある古池で、江戸時代に作庭された烏が池庭園は、その遺構を今に伝えている。
元和9(1623)年、尾張徳川家初代藩主義直より寺地を拝領して創建。禅宗の庭園「山水菩薩庭園」では、秋になると見事な 紅葉を楽しむことができる。江戸中期から残っていた山門は、一部の材料を再利用し令和3(2021)年に新築された。本堂には、義直寄進の本尊釈迦如来像が安置されている。
「日本の女優第1号」として名をはせた川上貞奴が、電力王と称された福沢桃介と共に大正時代に居住していた和洋折衷の建物を、創建当時の姿に移築復元。ステンドグラスがきらめくエレガントな邸宅。貞奴や桃介にまつわる展示とともに、郷土ゆかりの文学に関する資料を展示。
当館所蔵作品の中から、藤田嗣治や梅原龍三郎をはじめとする「エコール・ド・パリ」の芸術家たちの作品、加山又造など近代日本画を代表する画家の作品、そして一宮市出身の三岸節子による大作などを一堂に展示しています。
豊田佐助は兄の佐吉(発明家・実業家)を支えた実業家。佐助邸は大正12(1923)年に建てられた広い間取りの和館と、大正12年以前に建てられた白いタイル貼りの洋館で構成されている。平成23(2011)年に、名古屋市の認定地域建造物資産に認定された。
輸出陶磁器商であった井元為三郎が大正末期から昭和初期にかけて建てた屋敷。洋館、和館、東西2棟からなる蔵、茶室、庭園で構成されており、当時の記憶を今へ伝えている。建物の見学、レトロガラスと四季の庭を楽しめ、喫茶室もある。
尾張藩の御釜師の加藤忠三朗作品(主に茶の湯釜)のギャラリー。慶長16(1611)年に「清洲越」により、加藤家初代久左衛門が当地鍋屋町に移り、5代目のとき尾張藩より「御釜師」の称号を受けた。現在、御釜師13代目が尾張藩鋳物師の技を受け継いでいる。
名古屋最古の教会堂。鐘楼(移設)の鐘は1890年フランスのマルセイユ製。信者会館・れんが塀は登録文化財に、敷地内全体が都市景観指定され、「ケヤキ」の木も景観保存樹である。敷地南東部にルルドのマリア像と洞窟がある。
大正9(1920)年に建てられた書院・茶室・土蔵を改修し、多目的ホールを新築して開館。徳川美術館所蔵の百花百草図屏風(重要文化財)にちなんだ庭園が楽しめる。
当教会は「聖公会」(英国国教会関連)というカトリックとプロテスタントの両方の性質を持つキリスト教会である。そういう意味で「橋渡しの教会」とも呼ばれている。現在の建物は、ベージュ色の壁に赤い屋根と小さな尖塔を持つ外観で昭和26(1951)年に建てられた。令和5(2023)年に、名古屋市の認定地域建造物資産に認定された。
大正11(1922)年に建設された旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎。現存する最古の控訴院建築で、ネオ・バロック様式を基調。荘重で華やかな外観、ステンドグラスや中央階段室、会議室がある。現在は、名古屋市の公文書館として市政関連資料の閲覧ができるほか、建物・市政・司法に関する展示がある。
昭和13(1938)年竣工。名古屋城と名古屋市役所本庁舎に調和するよう設計された、城郭風の屋根を載せた帝冠様式。基本設計は西村好時と渡辺仁による。外壁は2階の窓下まで花崗岩貼り、6階窓下までは黄褐色のタイル、6階の壁面には白色の磁器タイルを用いている。
昭和8(1933)年竣工。近代的なビルに和風の瓦屋根をのせた「日本趣味を基調とした近世式」の建物で、二層の屋根を配した時計塔の頂上に四方にらみの鯱(しゃち)がのせられ、名古屋城との調和が図られている。一般公募の中から、平林金吾の案が採用された。
慶長15(1610)年、徳川家康が尾張徳川家初代藩主となる9男の義直の居城として普請を開始。天守閣は慶長17(1612)年竣工したが、戦災で焼失し、昭和34(1959)年に再建。隅櫓(すみやぐら)・門、二之丸庭園、乃木倉庫等、貴重な文化財がある。また、本丸御殿は、国宝第1号に指定されたが戦災で焼失。10年に及ぶ復元工事により平成30(2018)年から公開。(天守閣は現在閉館)
昭和6(1931)年竣工。様式は校史によれば近世式とあり、正面部分を半円アーチとし、パラペットにアクセントを施し、2~3階の開口部を外側に少しふくらませて5本の付柱を設けている。外装はスクラッチタイルを用いるなど華やかさを演出している。
甲州府中において、はじめ正林寺と号し、慶長16(1611)年に町名とともに清須より移転し、慶長19(1614)年に浄土真宗本願寺派となる。昭和20(1945)年名古屋大空襲により山門を残してすべて焼失し、現在の本堂は昭和51(1976)年に建立した。
昭和11(1936)年竣工。屋根に赤いスペイン瓦を用い、外壁を白系統に塗ったスパニッシュスタイルになる清楚な外観が特徴で、礼拝堂を兼ねる。佐藤鑑、城戸武男による設計。
大正13(1924)年に陶磁器の貿易商として財を成した春田鉄次郎が「関西近代建築の父」と呼ばれる建築家の武田五一に依頼して建築したと言われる邸宅。アールヌーボーの余韻の漂う建物は、南側が洋館、北側が和館の和洋折衷となっている。